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天生峠まで十二キロ。 岐阜県白川村の宿で見た案内図にそう書かれている。
こんなに近い距離で『高野聖』の怪しげな世界に浸れるのだ。
そう思うと、私の胸は年甲斐もなく激しく高鳴った。
距離は大丈夫。だが、問題は天気だ。飛騨高山から濃飛バスで白川に着いたのが四時半。
その時すでに小雨がぱらついていた。
四方を山で囲まれた白川は名うての多雨豪雪地帯。だが、それゆえに茅葺きの「合掌造り」が工夫され、世界文化遺産に登録されているのだろう。
しかし、今は晴れて欲しい。そう願い、心にテルテル坊主を飾り宿に入った。昨年の七月初めのことである。
次の朝、興奮していたのか早くも四時に目が覚め、晴れていることを念じ、窓を開けた。だが、土砂降りの雨。だめか、たった十二キロなのに。
諦めかけていたが朝食を食べた八時過ぎ、空に雲間が見え始めた。よし、行ける。
高ぶる気持ちを押さえ、フロントにタクシーを頼む。だが、料金を聞いてへこんだ。
想定外の額。しかし、とっさに、その半額で都合のつく人はいないかとフロントに聞いてみた。
いる・・・! 名前は杉原さんという。
紹介された彼は私より年輩に見え、どこか話しにくい小柄な人。いかにも頼まれたことが迷惑そうに、顎で乗れという。しかも、車は軽自動車。小さな車と彼の態度に、私は雨上がりの道、運転は大丈夫かと一瞬案じた。
宿を出て峠道に入ると私の不安は的中した。彼はまるでしがみつくようにハンドルを握り、無言でヘアピンカーブを上って行く。その姿に思わず私は「ずいぶん狭くて、曲りくねった道ですね」と言外に、彼への激励を込めて峠道の印象をいった。だが彼は、「まだまだ、こんなもんじゃないすよ」と軽くいう。するとこのカーブはもっと続くのだ。そう思うと私の頭に後悔の念が浮かんできた。
トコトコ走る車にカーナビがついている。
「これがあれば安心ですよね」というや「わしはカーナビの見方がわからんもんで」とかわされた。
『高野聖』での泉鏡花は、高野山の旅僧が昼なお暗い天生峠を蛇や山蛭に悩まされながら越えて行く恐怖を描いているが、私は彼の車に交通事故の恐怖を感じた。
上るにつれ、左の目に霧立つ深い渓谷や急峻な山々が、そして、右の目にどこかぎこちない彼のハンドルさばきが飛び込んでくる。
「この道は初めてですか」と私は、そうでないことを願いまた聞いた。「いや、何回かあります」と彼は軽くいう。だがすぐ「この車は初めてです」といった。
そういわれて私は心臓が止まりそうになった。もし、この車が左の深い渓谷に落ちでもしたらとても助かる見込みはない。そう思った時ふいに、宿の玄関先で見た「追悼碑」のことが脳裏をよぎった。
それは、平成十六年七月下旬、宿の前経営者の家族五人が、郡上市大和町内で東海北陸自動車道を旅行中、分離帯を越えて暴走してきた過積載のトラックに衝突され、一家全員が即死した交通事故のことだ。
もし、ここで滑ったら即死だという悲惨さが頭を占め、とても『高野聖』のグロテスクな世界や妖艶なエロティシズムの世界に浸れるどころでない。むしろ、死に神に誘われるがごとくこの峠道で自動車事故に遭うのではないかと体の震えが止まらない。だが、震えに誘われるようにその時、何故かスッと「あの追悼碑を見まして」と、事故死のことが口に出てしまった。
それは極力避けようと意識した話題なのに、意識の下では恐怖感が連鎖反応を起こしてしまったのだろうか。「とてもいい家族でしてね。あのあとですよ、道路が改良されたのは」と彼は私の不安な気持ちも知らぬげに、なんら過失のない家族の死が、事故防止策の引き金になったことをさらりと話したのだった。
追悼碑をきっかけに彼は打ち解け、四十キロ離れた富山県から車通勤していることや、天生峠なら道が狭く、すれ違うのにも軽自動車がいいのではないかと思い、これを借りてきたのだなどときさくに話しだした。なんのことはない、彼は車のベテランだったのだ。
彼の慎重な安全運転に安心し、頂上に着いた私は「泉鏡花作高野聖由縁の地天生峠標高一二九〇米」の標柱を写真にとり、透明な空気を胸一杯吸った。
帰り道、浮かれ気分で私は家族のことを彼に話し「ところで、お子さんは?」と気軽に聞いた。
すると彼は、「いやー、うちの子も事故で亡くなりまして」と衝撃的なことを打ち明けた。
私はえっ、と自分の軽卒さに身が縮まった。
だが彼は淡々と、部活動帰りの息子が突風にあおられた車に跳ねられ、その事故がきっかけとなり、その道に防風柵をつける運動に地権者が同意したのだと言った。
「息子の死も無駄死にではないようで・・・」と話を終えた。
雨上がりの天生峠。
そこに妖艶な女はいなかったが、悲しみを胸に秘めた人に会い、私は若い無垢な犠牲者にそっと手を合わせた。
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