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人のネットワーク
原田 武信

私たち五人は毎月一回、短い物語を書き、それを批評しあう小さな集まりを持っている。
五人のなかにNさんがいる。

Nさんは短髪で、色黒な五十前後の営業マンで、ただひとり仕事の現役だ。
教員退職の私が、生徒対教員の問題を題材に作品を発表した時だ。Nさんはかなり険しい顔で「おれは絶対あの担任だけは許せない」と何かを思い出していきをまいた。

いつも彼は、営業スマイルで穏やかに笑いながら話すのだが、その顔とはあまりに違い、われわれは「どうしたの」とびっくりした。

「アイツのためにおれの高校時代は灰色だった」と、彼はウーロン茶をぐっと飲んだ。
きっかけはさもないことだったという。

それは、彼が高校二年の九月末だった。
昼どきに担任から呼ばれた。呼んでいながら担任は弁当を広げ、インスタントみそ汁を湯飲みに入れお湯をそそいだ。何の用事かと聞いた彼に担任は「まあ、坐れや」と言い、湯飲みのみそ汁を箸でかき回した。
二、三回かき回すと箸を舐め、汁が口についた。目の前にそれを見たNさんは、だらしがないなと心の中で思った。ところが、その思いが表情にあらわれたのか「N。何だ、その顔は」とどやされた。

「すみません」と謝ったが、お前の態度は生意気で人を食ったようだときつく説教された。
結局、何のために呼ばれたのかわからず、担任に大きな不信を抱いた。

その不信はその後の授業で決定的になった。順番に指名していく授業なのに「お前はいい」と指名を飛ばされ、無視されたのだ。
さらにある日廊下で、シューズのスリッパ履きを注意され、直そうと腰をかがめた時にその無防備な姿勢をねらったのかバーンと出席簿で頭を叩かれた。
「あれで完全に頭にきたな。直そうとしゃがんだのに叩くとは何て卑怯なヤツなんだと」

不幸なことに、三年に進級しても担任は変わらず、彼はついに秋ぐちになって登校拒否になった。だが、母には言いづらく弁当を作ってもらい、途中の神社で本を読み下校時間に帰宅した。しかし、担任に家庭訪問され、ばれてしまった。卒業は出席日数がギリギリだったがなんとかクリアできた。
もう担任とは二度と会いたくないと思っていたが三十代前半の頃、出張で乗った東北新幹線に担任が乗っていた。

「ヤツもおれもまったく知らんふりして、横を向いたまま背中合わせに通り過ぎたのさ」

聞いた私たちは、ひどい担任がいたものだと彼に同情した。特に教員だった私は胸が痛む思いがした。きっと教えた生徒の中に私と相性が悪く、キレかけていたのが数多くいたのではないかと想像がつくからだ。

集まりの会場は公民館である。そのため、催しものがあると部屋の変更はよくある。
いつもは和室の控室なのに今回、大きな黒板と教卓がある階段教室に変更された。
終わって私が電気を消した。スイッチが教卓の左端にあるため教卓に手を置き、講義するような姿勢になった。

すると彼が「原田さんに教わったらよかったな」と話しかけてきた。
「いやー、恥ずかしいですよ」と言いながら廊下に出てふと私は思った。
彼が教わりたいと言ったのは“英語”ではないか、と。
私の専門教科が英語であるからだ。
すると、彼が“ヤツ”と言った担任は“英語の先生”ではないかと推察してみた。

「Nさん。担任は英語の先生だったの?」
「そうそう。だからおれは英語も大嫌いで」
「もしかして、H先生じゃないですか」
「それそれ。その人」

今でも一発食らわしてやりたいといった顔の彼に私は、なんと言っていいのか言葉を失った。
H先生は私の二年先輩で、しかも九年間同僚として一緒に勤め、息子も教えたのだ。
「Nさん。H先生ってそんなに嫌な先生なの? 実は、おれの先輩で同僚だったけど」

一瞬、彼は顔を強ばらせ、絶句した。
「確かにくせがあって我が道を行く唯我独尊の傾向はあるが、野球部の部長をしたり、仲人をしたりして面倒見のいい人なはずだが」

そう言いつつ私も似たような経験があると彼に話した。三十代半ばのころで、同僚に沿岸出身のスポーツ好きな二十代後半の先生がいた。当時、東北本線筋にある私立高校がたいそう荒れ、その学校を私は「ろくでもない」と馬鹿にしていた。私が悪口を言うたびに彼は顔をひきつらせ「そうでもないよ」といい面をあげた。しかし、家族同志で飲むたびに奥さんは、あなたは悪い高校を卒業したのだからしっかりしなければだめですよと彼の肘をつつく。そしてわかったことは、彼は私が悪口を言っていた私立高校の出身で、下宿した先の娘が奥さんだったのだ。

「結局私は、その学校のある一面だけ見て悪口を言っていたのですよ」
「そうですか。それにしても、原田さん。人と人とのネットワークはどこで、どう張りめぐらされているかわからないものですね」
聞いていた皆もそうだと頷いた。

(岩手県出身)

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