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レーナ・マリアの歌声を胸に……
梓 光一

この日、私の勤める小学校では、近くの川清掃を行う活動が午前中に行われた。そして午後は、学校田で刈り取った稲の脱穀作業が行われるという「勤労感謝デー」のような一日。当然ながら、私はくたくたで、子どもたちの下校時刻を迎えた。ふと、夕べ妻から言われていたことを思い出した。

「明日、ゴスペルコンサートだから早めに帰ってきてよね」
「えっ、何? そのゴスペルコンサートって」
と尋ねる私に、間髪入れずに妻が言った。

「何言ってるの? また忘れてるし! もう〜、信じられない。一緒に行くって言うから三千五百円で券買ったのよ。明日だからね!」
懸命に記憶の糸をたぐってはみるのだが……。ここは、平身低頭で事情を聞くしかない。妻は相変わらずプンプンしながら話し出した。

「いいコンサートがあるから行く?って聞いたら、『ウン、ウン……』って言ったでしょう。だから券、買っといたのに……もう〜、忘れちゃうなんて、信じられない……」

そうだ!そう言われてみれば、ひと月ほど前、私が学校の運動会の練習やら準備で疲れきって帰ってきた時に、チラシを見ながら、何かのコンサートのことを妻が話していたような気がする。その後にやってきた秋の一大イベントの運動会で、コンサートのことなど私の頭からすっかりと消えていた。

夕べからの延長で車中の雰囲気が重い。その上、作業の疲れから眠気が襲ってくる。何とかしなければと勇気を奮って開いてみた。
「なあ、何ていう歌手だっけ?」
「行けば分かるわよ!」
(たしかにその通り。奥方様のおっしゃる通りです)

「男性の歌手だっけ?」
「女性!」
(はい。分かりました。奥方様)

まあどうせコンサート中は睡眠時間になるんだから……と思ってはいたが、そんなことは絶対に口に出してはならないと思い、眠気を咳払いで吹き飛ばしながらコンサート会場に到着した。

駐車場は満杯。係員に誘導されて近くのホームセンターの駐車場へ。そこから歩いて十分の距離を、ナント、妻は走るというのだ。
(はい、はい。分かった、分かった。走りますよう〜。走ればいいんでしょう……)

仕方なく、妻の後を追って走った。作業後の筋肉痛が、いっきに押し寄せてくる。
(うっ、足が……つる……)
「やめてくれー!」と叫びたかった。

この時ほど、妻の背中が遠くに感じられたことはない。しかしここは、私の体育教師としてのプライドもある。つりそうな太ももの後ろを片手で押さえながら、やっとの思いでホールの入口にたどりついた。

汗が顔からどっと吹き出してくる。ホールの落ち着いたムード、そして秋の夜長、コンサートを聴きに来る人たちとは到底かけはなれた形相の中年夫婦は、
「コンサートは、今はじまったばかりです」
という係員の案内で、やっと座席へ着いた。

歌っているのは、紛れもなく若い女性。私は、ホッとした。髪の毛が黒っぽい美しい女性。歌詞は、どうも日本語ではなさそうだ。
「外人さんか……」

不覚にも私がつぶやいてしまった。
「当たり前でしょう……」

妻は、「ちゃんと話してあったでしょう。忘れるほうがいけないのよ」と言わんばかりに、小声だけどちょっぴりトゲのある言い方で返してくる。

気を取り直してステージを見つめた。三階席からなので、歌っている女性が小さく見える。黒いロングドレス。胸のあたりにラメが入っているのか、スポットライトが当たってキラキラと輝いていた。三階席から見る彼女は、腕を後ろに回すようにして胸を張って、堂々と歌っているように見えた……。

曲が変わった。早いテンポに乗って、体を揺らしながら歌う彼女に手拍子が起こる。
その時だ。ドレスの袖が妙に軽く揺れている。次の瞬間、私は目を疑った。後ろに回しているはずと思っていた腕が、見えないのだ。
 
その歌手には、肩からついているはずの両腕がなかった。

レーナ・マリア……一九六八年スウェーデン生まれ。出生時から両腕と左膝下からがないという原因不明の障害を持って生まれる。三歳時から習った水泳でソウルパラリンピック出場。音楽にも秀でた才能を持ち、音大卒業後は歌手として全米をコンサート。九二年からは毎年、日本各地でコンサートを続ける。

これは休憩中にパンフレットを読んで知ったことだ。パンフレットを見ながら、このコンサートのことを、妻が話していた時の記憶がよみがえってきた。そういえば……、
「あなたのような少し傲慢な人は、このコンサートを聴いて、心を入れ替えたら……」
妻が言っていたような気がする。

養護学校に勤める妻は、身体に障害がある子どもや知的障害児と日々生活をしている。そんな中で感じている何かを、また常日頃の私の生活にはない何かを、少しでも吸収してほしいと考えていたのかも知れない。

レーナの歌う姿に釘づけになる私。自信に満ちて堂々と歌う姿。腰をかがめがら譜面台に顔を近づけ、口で楽譜をめくる。首の上下運動だけでマイクの柄の高さ調節をする。また、いきなり左脚の義足を取って座ったかと思えば、床に置かれたオルガンを脚の指だけで、見事に弾きながら歌ってしまう。

声はどこまでも透き通ったソプラノ。私の心はとても穏やかになった。歌声に惹きつけられたまま、ただただ彼女を見続けた。

「ねえ、コンサートどうだった?」
「うん。とってもよかった」
気の利いた言葉が見つからなかった。

「寝てなかったもんねえ……」
「えっ、俺んとこ見てたの?」
「うん。三回ぐらい。でも、あなたの目が細いから、よくわかんなかったけど……」
大きなお世話である。

「寝るわけないだろう。感動したよなあ」
正直に言った。

「ふ〜ん。そう……よかった……」
 妻は、とっても満足した顔をしている。私はその横顔を見ながら、このコンサートで私に伝えたかったものが、ちょこっとだけわかったような気がした。

「ふー。あと四十分運転か……。眠いなあ」
「寝ないでよねー。あんなにいい音楽聞いた後で、事故ったなんてヤダからね!」
「分かってる。分かってますって……」
 それだけで、会話はとぎれた。

「おい、ついたぞー」
 私は家の前で車を停めたあと、助手席で寝息をたてている妻の肩を揺すった。

(長野県発信)

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