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遠いむかし、このような優しいまなざしがあったことを憶えているでしょうか・・・。 こころのビタミンエッセイスト濱田 優(ゆたか)さんが忘れ得ぬ人々をとおして、『絆』という温かい健やかな幸せの糸をたぐり寄せてくれます。 |
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| 第6話 おばあちゃん先生 |
| 昭和19年4月に赤坂の小学校、当時の乃木国民学校初等科に入学した。 白い手袋をした校長先生が、恭しく教育勅語を読み、最後に御名御璽(ぎょめいぎょじ)と結んだ場面の記憶はおぼろげだ。だが、ギョメイギョジだけは調子がいいためか、大人たちが時どき使っていたので憶えている。 花の小学一年生になったものの、集団疎開が本格化して生徒の数が少なくなり、東京の空襲が激しくなると学校は閉鎖された。翌年5月25日の山の手大空襲で赤坂は焼け野原になってしまい、勉強どころではなくなった。 学校再開の日は憶えていないが、それに先立つ寺子屋の記憶がある。日照りの強い日だった。三分坂下の報土寺境内の緑陰で、1年生から6年生まで十数人が集まって一緒に勉強した。今もテレビに過疎の村や被災地で似たようなシーンが映ると、当時の情景が蘇って感慨深い。 結局、小学一、二年は敗戦前後の混乱で、まともに勉強などできなかった。と、いうことは、いわゆる戦時教育や修身などはほとんど仕込まれず、生まれは昭和13年3月の戦中ながら、精神的には戦後教育の申し子といえる。敗戦を境に世界観が一変したのだから、昭和20年8月を何歳で迎えたかは、その人の思考の根っこを決めるポイントである、とぼくは考えている。 小学時代の忘れ得ぬ先生といえば、三年から六年まで担任だった村岡先生である。先生はその頃すでに50を過ぎたおばあちゃん、すごく小さいのに、すこぶる元気で腕白小僧たちを叱りとばす、怖い先生だった。戦後しばらくは資格をもった教員が不足し、いいかげんな代用教員もいた中で、村岡先生は師範学校出で、教育者としてなにか芯が通っている感じがした。 先生のお気に入りは子どもらしい生徒で、生意気な子は嫌われた。その頃、ぼくがよくつるんで遊んだ、クラス仲間にK君がいた。彼はベイゴマやメンコがめちゃ強い。逆にぼくは両方とも下手で負けてばかりいた。勝負してベイコマやメンコを取り合うホンコは止められていたけれど、親にはウソンコと嘘をついて“禁じられた遊び”に興じていた。弱いぼくは取られる方だが、K君には戦利品がたくさんあつまる。そこで二人は組をつくった。 彼は、ぼくと馬が合い年中一緒に遊んでいたが、村岡先生の受けはよくない。母親がいなく、父親の手で厳しく育てられ、甘えることは許されなかったからだろう、いつも上目使いで大人の顔色を窺っているようなところがある。そのあたりが、先生の目にはかわいくないないと映ったのかもしれない。先生はぼくの母に「お宅のお子さんを彼と遊ばせないように」と何度も注意したそうだ。母は笑って取り合わなかったけれど。 身体が大きいわりに何ごとにもおくてのぼくは、先生にかわいがられた。といっても先生は厳しく、叱られた思い出の方が多い。 六年生のとき、音楽学校出たての女の先生がきた。そのY先生は、美人のお嬢様タイプでおしゃれ、ふわふわのボアの白いスリッパが男の子には刺激的だった。ある日、音楽教室にいくと、床にチョークで社交ダンスのステップがしるされていた。彼女が練習でつけた目印を消し忘れたのだ。社交ダンス自体にまだ偏見があったころである。ぼくらは、彼女が男と抱き合って踊っている姿を想像すると心穏やかではなかった。それでY先生をからかい、泣かせてしまったのだ。 それを聞いたおばあちゃん先生の怒ったこと。悪がきたちにぼくも加わって、一緒にY先生を泣かせたと知ると、「ハマダ君までそんなことをして」とほかの生徒の倍もきつく叱られた。級長だからそういわれるのだろう。だが、級長はいやいや互選でさせられたのに、よけいに怒られるなんて割が合わない。ぼくがいささか不満だった。 小学校を卒業した後も、村岡先生はクラス会や同期会には必ずこられ、ぼくたちとの交流は絶えることはなかった。こちらが大人になるに従い、当然先生は高齢になられたが、いくつになっても衰えは感じられない。 先生が出てこられた最後の同期会は、バブルの頃、ぼくたちは五十路、先生は卆寿を越え92になられていた。なんとそのお年で熱海のホテルまで来られて一泊されたのである。その時ぼくは、小田急沿線の、環八沿いのお宅にお迎えに伺い、仲間の車でお連れした。こちらの心配をよそに、先生は長時間のドライブにも疲れた様子を見せない。一風呂浴びられた後の宴会では、背筋を伸ばした教師の姿勢に戻り、小柄な身体からは予想も出来ない大き声を出してスピーチをされた。 健康法では食事と運動に徹底的な注意を払っているといわれ、宴席の食事も身体にいいものしか口にされない。同室の女性陣の話しによると、その夜も早寝をされると、翌朝は早々に起きて、掛け声も勇ましくラジオ体操を始められたそうだ。 さすがにその後は、目と耳が衰えたとのことで集まりに来られなかったものの、お元気で年を重ねられ、白寿を迎えてもなおかくしゃくとされていた。バブルがはじけ、同期の仲間の中には失意のうちに倒れた人もいるのに、おばあちゃん先生は、まるで身をもって生き抜くことの尊さを教え示しているようだった。 そして平成15年、先生は天寿を全うされ、享年106の大往生を遂げられた。 |
| (C) YUTAKA HAMADA | ||||||||||
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| ピンチからの脱出(風薫号) 初詣入水事件(祝季号) 茜雲(彩風号) 崖下の家で(秋冬号) 不良爺さんの大往生(春夏号) 焼け野原を駆ける(白銀号) 母のご馳走力―ビタミン―(祭風号) この瑞瑞しき者(春夢号) アルプスの花(匠風号) |
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